地鉄の変遷

慶長以降の刀は、それ以前の古刀と比べると、顕著に変化した特徴がある。
それは おしなべて地刃がひどく硬くなり、しかも刃がもろくなった刀が多いことである。少し誇張して言えば、新刀の地鉄の硬さは古刀の刃部と同じくらいの硬さの場合がある。

更に新々刀期に入ると、地鉄は殆どの流派で無地風になる。
焼刃が硬いのは当然とする向きもあるでしょうが、試し切りをする人々の話では、硬ければ切れるわけではないようである。しかも悪いことに、もろいので刃こぼれがしやすい。

地刃が硬いということは、我々研ぎをする者にとって容易ならざる事であり、多くの労苦を負担する事になる。とりわけ内曇砥を利かせるのにかなりの時間と体力を費やす。古刀に比べて新刀以降の刀は、体感的に倍以上の体力を要する場合がある。


この稿では、この事実の原因に付いて考察を加えてみたい。
原因と思われるものを列挙すると以下の様になる。

1 鍛刀法の変化
2 原材料である和鉄の製鉄法における変化
3 南蛮鉄の流入


1 鍛刀法の変化

古刀の作刀法は資料が無く不明と言う事である。しかし 古刀期の刀匠が、ある日全て死に絶えて、それに代わる新しい刀匠の人々が、新たな鍛刀法で作り始めたわけではないので、この主張は否定される。

そもそも 封建時代における日本文化にあっては、宗教や学問のみならず医術、芸能から武術にいたるまで、師の考え方や方法を越えることは禁忌という傾向が強かった。

まして師承という密室性の強い作業において、作刀法を独自に変えるなどという可能性は薄い。
仮にその可能性を認めるとなると、日本全国で流派、地域の異なったそれぞれの刀匠が一斉に作刀法を変えたことになり、ありえないことである。

新刀特伝と呼ばれる、小肌に鍛えた地鉄に、焼き幅の広い刃文を焼く手法は、時代の流れの中で、顧客の要請に応じた作風における掟の打破であり、作刀の作業工程における変革ではない。
そもそも 古刀期と新刀期にまたがって活躍している刀匠が何人も存在するし、彼等が慶長と年号が変わって、それまでと全く違った作業工程を編み出したとは考えられない。

 
2 原材料である和鉄の製鉄法における変化

たたら製鉄について注目すべき事実がある。

(イ) 砂鉄を原料とし、木炭を加熱燃料として用いた、たたら炉製鉄法は基本的に大きな変化はないが、室町時代後期に鉄の需要が増大して、大量に供給する必要が生じ、そのために数人で行う「往復動足踏みふいご」が発案され、導入されたことである。

このふいごの導入によって、たたら炉の規模を大きく出来たばかりでなく、炉内の温度を高める事が可能となり、炭素の吸収をより容易にして鋼やズクが大量に生産されるようになった。

(ロ) 更に元禄年間に至ると、より効率的な「天秤ふいご」が発明され、炉温を高温に保つことによって吸炭を促進し、鋼を直接製造する方法が確立された。

以上に示したイとロの事実と、現存する刀の時代的な地鉄の変遷を比べると、興味ある関連が浮かび上がる。                       

すなわち(イ)によって作られた玉鋼が普及した慶長年間頃より、全国的に刀の地鉄に大きな変化が見られる。それは初めに述べたように、地鉄が硬く、しかも もろくなったことである。そして古刀ではよく見られた映りなどの景色が、あまり見られなくなった。

石堂一派には、映りの出るものが多いが、それらは備前の古刀の映りとは、いささか趣が異なる印象である。
そして(ロ)によって生産された鋼が出回り終えたと考えられる文化(1804~1818)、文政(1818~1830)あたりから、いわゆる新々刀期に入ると、ほぼ全国的に地鉄がガラスのようにいかにも無機質になり、無地風へと変化している。

イとロの工程で、それ以前と異なる作業工程と言えば、ひとえに以前よりたたらの炉内温度が上昇したということである。それによって吸炭を促進せしめ、効率的に鋼を量産できるようにはなったが、反面その鉄質において、以前より趣を欠く事になったと言える。


3 南蛮鉄の流入

ポルトガル船が種子島に漂着したのが天文12年(1543年)夏である。これ以降に交易が始まり、実際に南蛮鉄が流通して使われ始めたのは、慶長年間(1596~1615)からといわれている。

とすると、刀の地鉄の変化と奇妙に一致する事になる。

現在では舶来という言葉は死語になった。現今の外国製品は品質において、おおむね和製より劣っている印象があるが、我々の若い頃までは、舶来品は高価で高品質の代名詞であり、貴重なものという認識があった。

現今より400年余もさかのぼる慶長年間における日本は、工業分野において甚だしく西洋に比べて劣っており、そこからの輸入品は、大変貴重で高価なものだったに違いない。

「以南蛮鉄作之」と誇らしげに銘を切った刀が多く残っている。しかしこれらの刀は大体において刃がもろい例が多い。

斯様に当時の日本人は南蛮鉄を貴重視していたが、注目すべきは江戸時代初期の1600年代に、イギリス東インド会社の平戸商館長であったリチャード コックスが、和鉄はイギリスのものに比べ品質優良で且つ価格低廉であると述べていることである。

つまり和鉄に比べ、南蛮鉄は高価で、しかも品質は劣っていると、西洋人自身が認めている。

客観的に考えれば、南蛮鉄が輸入されても、それを全ての刀匠が買い込んで使用したとは考えにくい。なぜなら あまねく全ての刀匠が使えるほど大量に、しかも廉価で南蛮鉄が流入して来たとは考えにくいからである。

それゆえ慶長以降に使われた鉄は、上記に示した方法で量産された和鉄である玉鋼と、それに南蛮鉄とするのが穏当と考える。

この二つに共通する鉄質は、高温で精錬された鉄でであるということである。

この時代の南蛮鉄は、石炭やコークスを使って製鉄が行われており、木炭より高温が得やすかった。

そして この時代以降の和鉄もすでに述べたように、より古い時代のそれに比して高温で製鉄している。

つまり高温で製鉄された鋼を使う事になり、それはとりもなおさず炭素含有量が増した鋼を作刀材料として使う事に他ならず、その結果として焼きの硬度が以前より高まって、しかも脆くなったということである。

しかし悪いことばかりではない。炭素含有量が多くなった為に、鋼の温度に対する反応が敏感になり、助広などにみられる華やかな濤乱刃の実現が可能になった。
因みに助広の刃ぶちを称して「奉書紙を引き裂いたような」と形容される働きは、炭素含有量の多い地鉄の、例えば洋鉄を原材料として作られた素延べの昭和刀によく見られる傾向である。

助広の地鉄は炭素含有量が多いと言える。それゆえ助広の地刃は新刀の中でも際立って硬く、体力と手間のかかる刀である。
地刃の硬い刀は通常冴えることが無く、作位の低い刀が多いが、不思議なことに助広は手間をかけるほど刃が冴えてくる。

そのほか地鉄の変遷という観点で、肥前3代目の陸奥守忠吉を例にとると、初代、2代に比べて明らかに鉄質が変わり、地鉄と刃文のにえの印象が一変している。

概ね新々刀期の地鉄は、新刀期のそれより色合いの深みが乏しくなり、俗に言う水っぽい色調に変化している。

新々刀でも地艶砥で地鉄の色を目一杯引き出し、研ぎの最終段階であるぬぐいを濃い目に入れると分かり難くなるが、新刀の上作と並べると違いが歴然とする。

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